2009/03/20

ウィキ、USB、ポン酢

ネット上で時々巻き起こる議論のひとつに「ウィキペディアをウィキと略すのはアリかナシか」という話題があります。状況としては、一般利用者は「ウィキ」と略することに寛容で(というかそんな問題があることも知らないまま過ごし)、ネット技術に詳しい人が「そんな省略法はあり得ないので、けしからん」と主張しているわけです。

まぁ個人的には「アリでもナシでも、個々人が勝手に決めればいいんじゃないか」と思うのですが、白黒をハッキリさせたい人も多いようですね。

ネット技術に詳しい人が怒るのには、立派な理由があります。そもそもウィキペディアというサイト名には「ウィキという文書管理システムを用いた百科事典(エンサイクロペディア)」という意味があるからです。だからネット技術に詳しい人にとって、ウィキペディアをウィキと略すことは、USBメモリーをUSBと略すことと同じぐらい変なことなのです。

一方、ウィキが技術名であることを知る一般利用者は、そんなに多くありません。そこでこんな不幸が起こってしまうのでしょう。

実はこのような不幸が、他の分野にもあります。鍋料理を食べるときに出てくる「ポン酢醤油」がそうです。私たちは、あの黒い液体をよく「ポン酢」と略して呼びますが、あれは厳密に言えば「ポン酢醤油」と呼ぶべき液体です。

そもそもポン酢は、オランダ語のponsなどを語源にした外来語(なんと酢は当て字)。元々は柑橘類の絞り汁のことを指します。そして、そのポン酢を加えた醤油のことを、ポン酢醤油と呼んでいます。なので厳密に言えば、ポン酢醤油をポン酢と略することは、USBメモリーをUSBと略すことと同じぐらい変なことなんですね。

でも「ポン酢=あの黒い液体」という解釈は、現在、ほとんどの国語辞典が採用しています(念のために付記すると、辞典に載っている言葉が正しいという意味ではなく、多くの辞書がそのように編集するぐらい一般化しているという意味です)。ポン酢に他の有力な利用方法があれば、このような不幸も起こらなかったのでしょうが、なんとなく日本語の中でそういう流れが定着しちゃったようですね。

なので、私は「ウィキが略語としてアリでもナシでも、個々人が勝手に決めればいいんじゃないか」と考えていたりします。

p.s.

もうひとつのブログを始めました。興味のある方はどうぞ。

p.p.s.

本文とは無関係ですが、気分に変化があったので、今後しばらく「ですます体」で書いてみることにします。

2007/09/12

【コラム】KY

政治評論の場で、一時「KY」という言葉が流行った。安倍首相の「空気の読めない」行動を指した言葉だった。KYは若者言葉で「空気を読めない」「空気を読め」を指す。意外な分野で手垢がついた「KY」という表現。そろそろ若者の間では、使うと格好悪い雰囲気も出来ているかも知れない。

その手垢の原因を作った安倍首相が、辞意を明らかにした。参院選で惨敗したタイミングでなく、臨時国会の所信表明演説を行った今のタイミングで辞意を表明したのだ。なるほど彼は、空気が読めていない。

ただ私はひとつの仮説を持っている。彼は空気を読もうと「しすぎて」自我を崩壊させたのではないかと。「空気を作る」にしろ「読む」にしろ、その空気に積極的に関わろうとするには、強い自我が必要だ。自我が弱い人は「空気に染まる」しかない。だが一国の首相が「空気に染まる」ことは許されない。彼は弱い自我のまま、空気(国内世論・国際世論・政局など)を読もうとしすぎて、自分を見失ったのではないかと。

おそらく今後、一部のマスコミで「自分探しを続けている中田英寿」や「モンゴルで解離性障害の治療を続ける朝青龍」辺りと串刺しにして、彼の言動を論ずる記事が登場するはずだ(民主党代表辞任後に八十八カ所巡りを行った菅直人も登場するかもしれない)。そして、その背景として「彼らに相談相手がいなかったこと」、さらには「社会全体で人間関係が希薄化」していることも論じられるかもしれぬ。……いや、自我を保つには、社会の方が複雑化しすぎているという見方もあるか。色々と考えさせられる辞任劇だ。

2007/06/02

【コラム】慚愧

松岡農相の自殺について、安倍首相が「慚愧に堪えない」と発言していた。既にマスコミやネットなどで話題になっている通り「慚愧に堪えない」とは「自分の言動を反省して恥ずかしく思うこと」(大辞林)を意味する。おそらく彼は「残念」を難しく言い換えようとしたのだろうが、巷ではいろいろな深読みもされているようだ。

ともあれ、政治家の皆さんは「権威のある言葉」が好きらしい。同じ概念を表す言葉なら、彼らは「より難しそうな言葉」「より頭の良さそうな言葉」「より皆が知らなさそうな言葉」を選択するような気がしている。

例えば、戦前教育の影響下にある政治家の皆さんは、いわゆる漢籍(中国人が漢文で書いた書物)からの引用を好んだ。例えば小泉前首相の座右の銘は「無信不立(信無くば立たず)」で、これは論語の一節だ(実は彼、戦後に教育を受けた世代なのだけど)。いっぽう戦後生まれの政治家の皆さんは、それに加えて英語由来のカタカナ語を好むようになった。安倍首相の所信表明演説で、イノベーション(技術革新)などのカタカナ語が多数登場したことも、そういうことなのだと思う。

もう随分前のことだが、漫画家の倉田真由美さんが「だめんず・うぉ〜か〜」の中で、次のような指摘をしていた。「人は往々にして、文章の背後に“本当に伝えたい情報”を隠すのだ」と。

その回の具体的内容は失念したので、私なりに実例を考えてみた。例えばある女性が「昨日さぁ、IT系企業のCEO(最高経営責任者)をやってる知り合いと会ったんだけど、最近はあの業界も景気良くないらしいよ」という発言をした場合。この文章の要約は、本来「最近のIT業界は景気が良くない」となるのだが、真の要約は「私はCEOと友達だ」となるのだそうだ。彼女が本当に伝えたい情報はそういうことなのだと。これに即して邪推するならば、安倍発言の真の要約は「私は慚愧という言葉を知っています」となるか?

その彼女が「IP企業のCEOと……」なんて言ったら笑いものだろう。身の丈にあった言葉選びって、実に大切なことなのだと思う。

2007/03/17

【コラム】日本語ブームの終焉

自宅近くにある書店で、常設の「日本語コーナー」がいつの間にかなくなっていた。

確かこのコーナーが出来たのは『声に出して読みたい日本語』(斉藤孝著・2001年)が出版された頃だと思う。実はそれ以前にも『日本語練習帳』(大野晋著・1999年)というベストセラーがあったし、逆に近年では『問題な日本語』(北原保雄著・2004年)なんかが良く売れたので、私たちは10年ぐらい日本語で大騒ぎしていたことになる。この現象は出版界において第三次日本語ブームとして捉えられている。このブームが少なくともウチの近所の書店では終了した。個人的には衝撃的な出来事だった。

日本語ブームの終焉傾向は、テレビ界でも顕著だ。日本語ブームに「乗っかった」と思われる番組は、個人的に思い出すだけでもNHK総合の『あなたも挑戦!ことばゲーム』(2004年〜2005年)、NHK教育の『にほんごであそぼ』(2003年〜)、TBS系の『クイズ日本語王』(2005年〜2006年)、フジテレビ系の『タモリのジャポニカロゴス』(2005年〜)、テレビ東京系の『三宅式こくごドリル』(2005年〜2006年)などがある。しかしながらこれらの中で現存するのは『にほんごであそぼ』と『ジャポニカロゴス』だけだ。

実は出版界ではこんな説が囁かれている。「日本では不況期に日本語ブームが起こる」というのだ。例えば鍋底不況(1957年)の際には『日本語』(金田一春彦著・1957年)や『日本語の起源』(大野晋著・同年)が、また石油ショック(1973年・1978年)の際にも『日本語をさかのぼる』(大野晋著・1974年)『日本語のために』(丸谷才一著・1978年)といった書籍がベストセラー化した。今回のブームもバブル崩壊後の不況期に発生している。どうやら日本人は不況になると内省的になり、自身のアイデンティティーを確認するために日本語に興味を持つ……ということらしい。

かの店で常設の「日本語コーナー」がなくなったことは、日本語ブームの終焉を意味するのだろうか? そしてそれは「不況の終焉」や「内省の終焉」をも意味しているのだろうか? 他の書店でどのようなトレンド変化が起こっているのか、俄然気になり始めた。

2007/03/01

【コラム】ガンマバージョン

YouTubeに対するアクセス遮断問題(CNET Japanなどを参照)のためにサービスを停止していた『ニコニコ動画』(ニワンゴ)が、近日中にサービスを再開すること発表した。この再開サービスについてニコニコ動画では「クローズドガンマサービス」という表現を用いている。

このうち「クローズド」とは限定会員向けのサービスという意味(それでも10万人のテスターを募るというが)。そして一方の「ガンマ(γ)サービス」は、おそらく「ベータ(β)サービス」から着想を得た用語なのだろう。既に一般化していてもおかしくない表現ではあるが、妙に新鮮な感じだ。念のため少しググって調べてみたが、一部ウェブサービスでγバージョン・γ版・γサービスといった表現が登場しているものの、その数はαやβほど多くはない(ただしこれは日本語での話だ)。

ソフトウェア開発の現場では、開発の段階を表す言葉として「αバージョン」「βバージョン」という用語をよく用いる。厳密な定義があるわけではないが、開発初期にテスト用・機能評価用として確定させるバージョンのことをαバージョン、リリース直前段階に最終テストのために確定させるバージョンのことをβバージョンと呼ぶ。

ところがウェブサービスの世界では「永遠のβ」という考え方がある。つまり「機能が完全に確定していない状態でも、とりあえずサービスを開始してしまい、ユーザーからの要望などを反映しながらサービスを継続する」という考え方だ。その方がネット特有のスピード感やダイナミズムにうまく追随できる。よく知られるところでは、あの『mixi』が現在でも「ベータ版」と言い張っている。これは旧来的なコンピューター業界人にとって、随分ショッキングな概念に映っているに違いない(旧聞ながら、YouTubeに「もしもプログラマーが飛行機を作ったら」という動画がアップされているので、時間のある方は見ていただきたい)。

翻って、ニコニコ動画が用いた「ガンマサービス」(γバージョン・γ版・γサービス)という表現は、非常に象徴的に思える。「永遠のβ版のつもりで開始したサービスが、不測の(?)事態でストップしてしまった。再開後のサービスはβ版とは大きく異なる仕様だ。さて、この新サービスを何と呼ぶのだろう?」と、おそらくそんな議論が交わされたのではないか。こういう議論は、モノがネット上のサービスでなければ起こりえない。

ひょっとしたら、日本のウェブサービスの世界では、今後「デルタ」「イプシロン」「ゼータ」などのギリシャ文字が消費されることになるかも知れない。かつて、バグだらけのソフトウエアのβ版が、ver 0.99999999……999bと、その桁数を増やしていったような感覚で。

2006/11/17

【コラム】ライブドア問題と新語・流行語大賞

今週、新語・流行語大賞のノミネート語が発表されたことから、直近のエントリーで「ノミネート語の予想」「その結果発表」「来るべき大賞の予想」を展開したわけだが。その作業の中で、ひとつ気が付いたことがあった。「ライブドア問題と新語・流行語大賞」との大いなる関連性だ。といっても「両者の間に黒い癒着が……」という類の話ではない。「両者の間には、深い因縁が存在する」という話だ。

この事件が報じられた際、ワイドショーなどで堀江貴文被告と自民党・武部勤氏との蜜月ぶりが広く伝えられたのだが、実は二人が知り合うきっかけを作ったのが、新語・流行語大賞の授賞式だったのだ。2004年12月、堀江被告は「新規参入」の受賞者として、武部氏は「サプライズ」の受賞者として、同賞の授賞式に参加した。これが二人の出会いだった。後に堀江氏は2005年8月の衆議院選に立候補することになるが、それもこの出会いがなければ実現しなかった出来事だった。

さらに興味深いことには、2005年12月の新語・流行語大賞で、二人が「大賞の受賞者」として再び顔を合わせることになる。堀江被告は「想定内(外)」の受賞者として。武部氏は「小泉劇場」の受賞者として。いわゆるライブドア事件が発覚するのは、それから約一ヵ月後の今年1月の出来事だった。

「ライブドア事件」という言葉は、今年の流行語として記憶に残るキーワードだが、残念ながら新語・流行語大賞にはノミネートされていない。また、民主党などが持ち出してきたキーワード「BLT問題(防衛庁・ライブドア・耐震偽装問題)」もノミネートされず。もっともこの言葉は同じ民主党の「偽メール問題」で立ち消えになったのだが、その「偽メール問題」さえもノミネートされていないのが面白い(良く見ると「捏造」というキーワードがノミネートされており、そこにES細胞の論文捏造問題、耐震偽装問題、偽メール問題が集約されていた)。もちろん「偽メール問題」の主演者は永田寿康氏だが、助演者(に無理矢理させられた登場人物)は他ならぬ、堀江被告と武部氏だった。どうも、この一連の問題に新語・流行語大賞が懲りているような印象を受ける。無理もないこととは思うが。

個々人が堀江被告や武部氏に対して抱く感想は色々あると思う。が、この二年ほどの間に政治・マスコミ・世論が、どれほど彼等の言動に振り回されてきたのかが、この一連の流れを見るだけでも良く分かるのではないだろうか? 改めて「新語や流行語は社会を映す鏡」だと思う。

2006/05/29

【コラム】ネットらぶちゃん

メンズのエントリーで言い足りないことがあった。造語で自己表現する人にこう言いたいのだ。「もしあなたの発言が、社会的に大きな影響を与えるのであれば、あなたは造語の発信を“やや慎重に”行った方がいいですよ」と。でないと、多くの人から失笑を買うことになってしまう。

私が最近その傾向を感じているのは、フジテレビの『スタメン』という番組だ。例えば昨日の放送では「ネットらぶちゃん」という造語を持ち出し、「コミュニケーション系のサイトでバーチャルな恋愛を楽しむ女性」のドキュメントを放映していた。テーマ自体に「今さら」感が強いのだけど、それはさておき。この番組のズルいところは、自分で作り出した造語を、さも「世間ではこういう言葉が流行っているんですよ」という風な体裁で紹介する、その演出にある(辞書風の体裁で、その言葉の定義を説明する演出など)。もちろん「ネットらぶちゃん」などという言葉は、巷で全く利用されていない(5/29早朝でのGoogleの検索数は2件でその両方とも同番組の内容説明)。さらに悪いことには、同じコーナーでは「巷で実際に使用されている言葉」が紹介されることもあり(ミリオネーゼ、おひとりさまなど)、テレビだけを見ている分には「創作であるかどうか」の区別が全く付かない。これは非常にズルい。

もしもマスコミが「漠然とした現象」に対して「的確な言葉」を与えることができ、それが「世間から大きく支持される」のであれば、その表現行為は十分に社会貢献していると思う。おそらく同番組が目指しているのはそういう方向性ではないのか? ならば「もう少し堂々とした演出をすればいいのに」と勿体なく思っているところだ。

追記:オタ姑娘(クーニャン)という言葉を紹介した同番組の映像(5月14日放映分)がYouTubeにアップされていた(その1その2)。明らかな著作権の侵害行為だが、合法的に再放送を紹介できる手段がない以上、このようなソリューションに頼らざるを得ない。これは非常に悩ましく「憂慮すべき」事態だと思っている。

2006/05/27

【コラム】メンズ

チャンピオーネのエントリーで、「僕的にこういうのOUTなんです」とのコメントを頂いたことへのアンサーとして。私は常々感じていたのだ。ある種の人間って、自己主張の強さを「造語」(あるいは「独自用法」)をいう形で表現することが多々あるのだ、と。

今、テレビで叶姉妹が出ていて、妹の美香さんが「姉のメンズの相手をするのが大変」と発言していた。もちろんこの場合のメンズとは「彼氏たち」という意味。「ズ」の一言で自由奔放な恋愛場面を表現してしまう手法は、なかなか巧みだなぁとは思うけど、多分、こういう表現が鼻につく人は多いと思う。彼女たちに言わせれば、イケメンは「グッドルッキングガイ」ということになるけど、こういうのも鼻につく(勿論英語では一般用法なのだろうが、外来語として彼女たちがこの言葉を持ち出すところに重大な意味がある)。私が思うに、こういう言葉からは「自分大好き」とか「自分オリジナル」とかいうオーラが出まくっているのだ。

このパターンって、結構、世の中でよく見かける。某都知事の命名センス(大江戸線・首都大学東京)にもそういう部分を感じるし、カルトに見られる命名儀式(オウムのホーリーネーム)も似たようなものか(これが分かりにくいなら、学校のクラスの中でニックネームの命名者がどういう位置付けの人だったのかを思い出すといいだろう)。あと漫画「だめんずウォーカー」には、自分のナンパ戦果を独自の言葉で表現するナンパ師が登場するし(徒労に終わるナンパを「無打(むだ)」と言ったり、泣いて女性を落とすことを「涙打(なみだ)」といったり。もちろん「打」はセックスの隠喩)、青年実業家なんかは「出会い」を「出愛」と書き換えて名刺に刷りがちだ。……っていうか、そもそもそういう造語のひとつやふたつは、誰だって気が付かないうちに作っているハズなのだ。影響の大きさはともかくとして。

もちろん、こういう行為が全くNGなのかというと、そういうことではなくって。要はその概念が「他人に広く受け入れられるかどうか」という、ごくごくシンプルな分岐点があるだけのこと。みうらじゅんの「マイブーム」だって相当「俺オーラ」が出ていると思うけど、共感・実感する人が多いからこそ、ここまで一般語になり得た。田中康夫考案の「スッチー」もそう(まぁこの言葉を利用する人に対して抱く嫌悪感は今でも健在だけど)。

総じて言うと「造語」って、それだけ世間の審判にさらされやすいハイリスクハイリターンな自己表現なのだと思う。チャンピオーネという言葉は、まさにその「ハイリスクハイリターン」な状況に置かれているのではないか。

(→続きのエントリー

2006/04/27

【コラム】ヌーサン

先日、NHKで「立花隆が探る サイボーグの衝撃」とかいう番組をチラ見した。番組の内容・構成に関しては、巷間で色々と物議を醸し出しているらしいが、それはひとまず置いておいて。この番組に立花氏の対談相手として出演されていた押井守氏の発言に、筆者は大きく共感したのだ。曰く「人類は既にサイボーグなのだ」と。

私たちがサイボーグといってイメージするのは、手の部分がロボットに置き換わった装置だったり、脳とコンピューターとを直結するインターフェースだったりするのだけど(番組ではそういう類のテクノロジーがすでに現実のものと
して紹介されており、それ自体に驚かされるのだけど)、実は、身体機能の拡張という意味での「原始的なサイボーグ状態」は、もうほんっとに古い昔から実現している。

つまり、人類が服を着るようになり、メガネをかけるようになり、入れ歯を利用するようになり、義手や義足を用いるようになり、骨をボルトで締めるようになり、ペースメーカーを入れるようになった時点で、すでに人類のサイボーグ化は進んでいるのだ。あるいは化粧を超えて、鼻に注射をしたりシリコンを詰めたりする行為もサイボーグ化。薬やサプリメントの利用は、まるでアラレちゃんがロボビタンAを補給する行為にそっくりだし。もっというと私たちが日常的に使用している「外部装置」の数々だって、つまり、靴や自転車や自動車だって、あるいは紙やテレビやコンピューターや携帯電話だって、ある意味でサイボーグ化だと考えられるわけだ。

……などという大言壮語の後になんだけど、本題はサンダルとブラジャーとカツラとコンタクトレンズの話。

ある会社がヌードサンダルなる商品を売り出していることを知った。略してヌーサン。かつてストラップのないシリコン製のブラジャー「ヌーブラ」が大流行したことがあったが、そのサンダル版といった感じの商品だ。すなわちヌーサン(まさに靴底の形をしている)を足裏に粘着させることで、裸足のような見栄えを作りながら、足裏を保護するという商品なのだという。女の人なんかは、ストラップによる日焼け跡ができないし、アンクレットやトゥーリングなんかのアクセサリーも見栄えが良くなるだろう。

本来、ヌーサンにしてもヌーブラにしても「実用」という側面で考えると不便な部分の多い商品なのだと思う。乳房の保護という観点ではヌーブラよりもブラジャーの方が優れた機能を持つと思うし、靴としての性能を考えるとヌーサンよりもサンダルの方が優れているのだとも思う。

でも人間の美的欲求って、時としてそういう価値観に勝ってしまうことがあるのだ。例えば、メガネを捨ててコンタクトレンズを使い始めた人の気分って、こんなんじゃなかったかと思うのだ。カツラの不自然さを嫌って、ややメンテナンスの面倒なプロピア(皮膚に吸着させる人工頭髪)を利用しはじめる男の気分も、これに似た感じのものだろう(思えばプロピアのコピーは「ヘアコンタクト」なのだった。これは頭に装着するコンタクトという意味らしい)。「人の本質は見栄えではない」と理念的社会は叫んでいるけど、どっこい本音の部分では、その理念に抗っているのが人間というヤツだと思う。嗚呼、悲しき人間の業。

押井守氏はこう言う。サイボーグ化が進んで、それこそ脳以外の全ての部分が機械やコンピューターで置き換わるかも知れない未来において、人間が人間たり得る本質は「その人の記憶」に尽きるではないか?と。私自身はこの問いに関して明確なビジョンを持っていないが、ヌーサンのような商品を欲する人間の業を見るにつけ、「モノとしての身体」にこだわる人間の感覚は、わりと長い未来にまで残り続けるのではないかと想像しているところだ。もっとも、それさえも覆るような価値観が登場するのなら、それはそれで面白いのかも知れないけど。生きているうちにそれを確認できることは、ないんだろうなぁ。いや、あるのかな?

2006/04/08

【コラム】こっさり(2)

「こってり」と「あっさり」の中間形である「こっさり」という新味覚表現を発見してビックリした私。「ひょっとしたら」と思いながら新聞記事を検索すると、あったあった。最古の新聞記事。1998年の毎日新聞だ。

舌の肥えた札幌市民なら行きつけのラーメン店が1軒や2軒あるだろうが、店の味に満足できない人や、新たに店を開拓したい人などに最適の一冊「噂のラーメン鑑」が発売された。札幌市民3000人のアンケートをもとに性別・年代・職業別に、し好を分析し、味の傾向を分類。従来の「あっさり」「こってり」に加え、両者の特性を併せ持つ味「こっさり」を新設。(毎日新聞1998年8月20日北海道版「『噂のラーメン鑑』発売 札幌周辺80店を紹介」)

実はこれ以降の新聞記事で「こっさり」の語形が登場する場合、そのいずれもが北海道内の(あるいは北海道をルーツにする)ラーメンについて言及していた。どうやらこの言葉、北海道が発祥地らしい。ウェブで「こっさり」を検索すると何故か「スープカレーへの言及」も発見できるのだが、そういうことなら合点がいく。スープカレーは札幌の新名物だ。

それにしても北海道から発信される言葉はあなどれない。ここ数年で「がっつり」(しっかり・たっぷりの意味)という北海道方言もすっかり全国規模の認知度を得るようになったが、「こっさり」もこれに続くヒット作になるのではないか。「なまら」(とても・非常に)などの流行方言よりも、「がっつり」や「こっさり」のような地味な言葉の方が、強力な伝搬力を持ちながら世間での認知度を得てゆくように思う。

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